まだ独身で20代半ばだった私が、両親と弟と一軒家に暮らしていた当時、目の病気で入退院を繰り返していました。
大学病院で何回目かの緑内障の手術を終え、退院の日が決まり自宅に帰るとき、迎えに来てくれる人がいなかった私は、高速バスと路線バスを乗り継ぎ、やっとたどり着きました。
「結婚するいとこが住んでいる三重にみんなで行く」と家族から入院していた私に説明があり、自宅には誰もいませんでした。
退院したばかりの私が、「遠出するのは難しいだろう」と、置いてき堀を食いました。
ガランとした一軒家に1人だった私は、とても寂しく孤独だったことを覚えています。
「まあいいか」ととにかく疲れた体でお風呂に入った私は、買ってきたお弁当を食べたあと、すぐ床に就きました。
そんな私に嬉しいサプライズがありました。
翌朝、居間のこたつに入り、あるもので適当に準備した朝食を食べながら、見ようとスイッチを入れたテレビに映し出された映像に、私は度肝を抜かれました。
ビルや家が崩れ、道は割れ、ところどころから火があがっていた同じような映像が、どのチャンネルも流れていました。
「何?コレ日本なの?いったい何が起こっているの?」とテレビを見ながら、私は映像にくぎづけでした。
病院から退院した私が、朝食を1人で食べていたのは、あの歴史に残る地震「阪神・淡路大震災」が起きた1995年1月17日の朝でした。
新潟県の自宅は全く揺れませんでしたが、「こんなに大きな地震だから、同じ西日本の三重県と兵庫県は、影響があるかもしれない」と考え慌てた私は、親戚の自宅に電話しました。
ところが、受話器からは「プーップーッ」と不通の音がするだけでした。
もちろん携帯電話も普及しておらず、スマホもない時代だった当時、連絡を取る手段は固定電話しかありませんでした。
近年は全国的に大きな地震が増えているものの、頻発していなかった当時は、本当に驚きました。
「みんな被災していたらどうしよう、私1人だけになっちゃう」と、不安な時間を過ごし焦りまくりましたが、しばらくすると電話が繋がり、家族も親戚もケガもなく無事でした。
3泊4日の旅行を終えて帰ってきた家族の土産話は、少し揺れた三重県四日市市の地震の話一色でした。
正直なところ、1人置いてき堀を食った私が面白くなかったのは事実でした。
しかし、地震は体験したくなかったので、「一緒に行かなくてよかったのかな?」と思いながら、話を聞いていました。
車で行った三重県からの帰りの道中は、「地震の影響で通行止めになっているところもあったから、大変だった」と運転手を務めた弟が話ししていました。
一方、弟が車を出してくれたおかげで、荷物の量を気にせずお土産が買えた両親は、喜んでいました。
そんな中、「これ、お土産」と父から何か小さな袋を手渡された私は、受け取った小さな袋の中を開くと巾着が入っており、「ありがとう」と言いました。
ピンクのサテン地に、何かローマ字が刺繍してあった巾着に白い紐がついていました。
「かわいい巾着のお土産だ」とばかり思っていた私に、父は「ん?おまえ中見たのか?」と言いました。
父の表情と言葉から、どうも中に何かが入っているらしいことを悟った私が巾着の上を指でなぞってみると、確かにでこぼこしていました。
巾着を広げ何があるのか確認すると、何と小さなピアスが入っていました。
「それな、近鉄デパートで買ったんだ。おばちゃんに一緒に見てもらった」とご満悦の父が、とにかくうれしそうな笑顔で言いました。
田舎の人間の父は、田畑を耕しながらとび職をしていました。
アクセサリーなんて全く縁のない父が、私の耳に穴が開いていることを知っていて、ピアスのお土産を買ってきてくれるなんて、感心してしまいました。
あの地震で、真剣に家族の生存を心配していた私は、元気でお土産のピアスを手渡してくれた父の笑顔を見て本当に嬉しかったです。
もちろんイミテーションの石でしたが、父が選んでくれたのは、ルビーのような小さな赤い石がついたゴールドのピアスでした。
あれから20年以上の年月が過ぎた現在でも、あのときもらったピアスは、私の宝石箱にしっかりしまってあります。
ただ、なぜ「ルビー」だったのか、「三重県なんだからイミテーションでも真珠じゃないの」と笑顔で父に言いたくなりました。